「願い書」
「願い書」
小学生の弟と、いつものように、電車で通学していたある日、いつも乗っている「きのくに線」の電車の種類と車内のデザインが一新していた。それを見るなり、「え!ヌナ!電車めっちゃ新しくなってるやん!え、一人用の席もあるで!すごいな!」と、弟が話しかけてきた。その姿は、とても無邪気だった。
それなのになぜだろう、中学生の私は「それくらいのことで大きい声ださんとって、朝から恥ずかしい、ださい。」と言い放ってしまった。たちまち弟の顔から感動の色が消え、しゅんと黙らせてしまったことを今でも鮮明に覚えている。
私も内心、彼と全くおんなじ気持ちだった。座席が広いことに喜んだし、落ち着いた色合いへと変貌した車内を見わたし、ウキウキした。嬉しかった。
なのにどうして中学生の私は、あんなことを口にしたのだろう?…いや、何度考えても分からない。分かりたくもない。
ただ確かなのは、感動を感動のまま受け止め、言葉にすることが恥ずかしいという感覚がそれくらいから芽生え始めたということだ。
恥ずかしながら、二十二歳になった今も、まだその感覚が完全には抜けていない。思春期に芽生え始めた(ほぼ)無駄な自意識が、度々、生活の様々な場面において邪魔をしてくる。だから、西加奈子の『舞台』に出てくる「葉太」の「強大な恥意識」や、太宰治『女生徒』の持つ自己嫌悪に触れたときは、ひとりじゃないんだ、とうれしくなった。近頃全然ペンが進まないのも、この変な自意識のせいだということに今さらながら気が付いた。特に長い文章を書くことはなるべくしたくない。エッセイなんかはなおさらだ。なぜなら、私という人間から滲み出る「本当」のエキスが、長い文章の文と文の隙間から垂れ流れて、それを読者が吟味してしまうからだ。(この感覚を表すふさわしい言葉を、私はまだ見つけられていない。けれど、「ばれる」という表現が今のところ一番妥当かと思われる。)表現をする際、もっぱら詩や歌詞に頼ってしまうのは、それらが孕む解釈の余地と可能性の広さが、「(私という人間のもつ)本当」を霞ませる役割となって、安堵をもたらしてくれるからだろう。
その反面、好きなコトを好きだとストレートに表現できる人は本当にかっこいいと思う。身の周りで起こった些細な感動を、発見したときの温度そのままに表現できる人に悪い人はいないんじゃないだろうか。彼らは無邪気でかけねなく、それでいて堂々としているから魅力的だ。
好きだから好き。
食べたいから食べる。
伝えたいから伝える。
信じたいから信じる。
シンプルで単純なことが、今となってはこんなにも難しいものか。なんだか、総じて恥ずかしくもどかしい。と、書いてしまっていることも恥ずかしい。
年明けに行った占いのこと、美味しいご飯屋さんのフォントにまつわる持論や、好きなラジオの話なんかを、心に秘めている熱量のままに書けたなら、私も、誰かの目に無邪気な姿で映りえるのだろうか。
(金春華 / 外国語学部日本語学科4年)
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