映画批評

『燃ゆる女の肖像』(二〇一九 セリーヌ・シアマ)

カンヌ国際映画祭にて脚本賞と一番優れたLGBTQ+を扱った作品に与えられるクィアパルム賞を受賞した本作は、一八世紀フランスのブルターニュ孤島で見知らぬ男との結婚を強いられる貴族のエロイーズ(アデル・エネル)とその肖像画を書くことを任されたマリアンヌ(ノエミ・メルラン)との愛の物語である。本作が各方面から絶賛を受けている所以は、絵画のように美しい映像や儚いストーリーだけではなく、さまざまな階級に存在する女性差別や、その中でも結束するシスターフッドが現在のフェミニズム運動と共鳴している所にある。

女性の眼差しーフィメールゲイズ

冒頭でも述べたが本作はエロイーズと、その婚約相手に見せるための肖像画を描くマリアンヌとの間に生まれた恋愛の物語であるが、エロイーズは望まぬ結婚を拒み、マリアンヌの前に来た男性の画家の前では顔すら見せなかったという。そこでエロイーズの母はアリアンヌの正体を明かさずに散歩相手として娘の相手をさせ、秘密で肖像画を描くことを約束させる。もちろんそんな条件で描かれた絵には命が宿っておらず、結果マリアンヌは正体を明かし、エロイーズも肖像画を描かれることを了承した上でもう一度描き直すことになるのだが、ここで初めて本当に二人はお互いを見つめ合うことになる。

ハリウッド映画界では当たり前のように男性を主体とした映画、また男性監督の映画が多く、もちろん収入にも男女格差が現れている状態だ。現在そういったギャップを埋めるために意識変革が起こっている最中だが、そんな中でこの映画には男性がほとんど登場せず、終始女性同士のまなざし=フィメールゲイズを見ることができる。

マリアンヌは肖像画を書くためにエロイーズを見つめ続け、表面的なところから彼女のより内面を見ていくことになる。そして同時に、エロイーズもまたマリアンヌを見つめているのだった。そこで初めて二人は対等な位置につくことになる。そうして完成した肖像画にはエロイーズの魂だけでなく、マリアンヌ自身をも象徴するものとなるのである。

男性を欠いた映画

前述の通り本作には男性はほとんど登場しない。(監督をはじめ制作陣もほとんど女性だ。)しかし、不在の男性によってエロイーズ、マリアンヌ、そしてメイドのソフィ(ルアナ・バイラミ)はさまざまな形で苦しめられている。例えば女性が一人で自立して生きることが出来なかった時代、エロイーズは見ず知らずの男と結婚しなければならない。マリアンヌも女性が排除された芸術界で、すでに画家として名声を博している父の名を借りなければ作品を自由に発表することができない。

そして、この作品で不在の男性により傷つけられた女性を意識せざるを得ないシーンといえば、メイドソフィの中絶シーンだ。エロイーズの母が五日間家を空けている間に、家に残された三人の女性たちは身分、階級を超え対等な関係を築いていく。そんな中ある時ソフィがマリアンヌに自分がおそらく妊娠しているが、子供を産み育てられないので堕胎したいと打ち明ける。そこで三人は協力してさまざまな民間療法を試すが失敗し、結局地元の助産師の元で中絶することになる。中絶のシーンはとても痛々しく直視できないようなものだったが、後日エロイーズの提案でソフィが中絶している姿を再現し、マリアンヌはそれを絵に収めている。

このようにスクリーンには姿を現さない男性によってソフィは妊娠し、中絶を強いられ、しかも結局男を頼らず女性だけの力でそれを実行したのである。セリーヌ・シアマ監督は、「中絶をするのは子供が欲しくないからではない。中絶は女性が主体的に選択して望むときに子供を産むためのもの。それを観客に伝えたかった」と言っている。この時代、同性愛も中絶も「神」という男性が支配するキリスト教の世界では大罪に値するものだが、三人の女性たちは、階級を超えシスターフッドを結び、それをものともせずやってのけたのだ。

この作品は一七七〇年代が舞台の映画だが、終始描かれている女性同士のまなざし、そして結束は現代を生きる私たちに深い愛と勇気を与えてくれるはずだ。今なお根深いジェンダーギャップの克服のため、女性だけでなくすべての人たちに見てほしい。


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『ストーリー・オブ・マイライフ/私の若草物語』

『燃ゆる女の肖像』が画家の話だったなら、この作品は物語を書く小説家の話だ。若草物語は言わずと知れた名作で、映像化も幾度となくされてきたが、本作は主人公ジョーの今までにないパワフルさ、また繊細な葛藤だけでなく、女性における結婚と経済まで視野を広げ描かれている。

本作はグレタ・ガーウィグ監督とジョー役のシアーシャ・ローナン、ローリー役のティモシー・シャラメは『レディバード』以来再タッグを組み、現代的な感性で新たな若草物語が生まれた。

小説を書くということ

この作品は小説版でいう『続若草物語』の内容からはじまり、『若草物語』時代を回想しながらその二つを行ったり来たりする構造をとっている。そしてそれだけではなく、原作者であるルイザ・メイ・オルコットの人生と小説の登場人物であるジョー、さらにはグレタ監督の人生とも重ね合わさった自伝的な作品となっている。複雑なように思えるかもしれないが、小説を書くという行為が3人の女性としての自立を象徴するものとしてまとめられているのだ。事実監督は、『これは私にとって「レディ・バード」以上にパーソナルな映画。私のすべてよ、と。私が描きたいのは表現者としての女性、そして女性とお金の物語よ。今まで誰も掘り下げてこなかった側面から原作を描きたかった。私の中ではかなり具体的なイメージができていたの。こういったら奇妙に聞こえるだろうけど、これまでのどの監督作より自伝的な作品よ』と語っている。

映画の終盤で『若草物語』を脱稿し、出版社に持ち込んだジョー(=オルコット)は作品の原稿料のみを支払われそうになるが、彼女はなんと自分の作品の著作権を自分で所有することを主張し、見事権利を獲得する。これは彼女の経済的な自立を自分自身の手で手に入れたことを意味する。そして当時名作を書くことができるのは男性のみだと信じられたなかで、『若草物語』は発売からたちまち大ヒットとなり、その日から今日に至るまで一度も絶版になったことがない。

駆け抜けるジョー

この作品の舞台である1860年代に比べ人権も保障され自由と平等が謳われている今日だが、未だに若者の恋愛事情に容喙してくる上品な大人は少なくない。おそらくそういった人たちの中には、人は一定程度の年になると(往々にして異性と)結婚し、子供を産み、家庭を作らねばならないといったステレオタイプが深く根付いているのだろう。

そんな中ジョーはあらゆる意味で「女性はこうあるべきだ」という規範に縛られていない。例えば本作で印象的なニューヨークの街を駆けるシーンでジョーは洋服の中にコルセットもペチコートもつけていないそうだ。文字通り何にも縛られないという意思を感じることができる。

そしてこの作品の中核と言える、「女の幸せが結婚だけなんておかしい。そんなの絶対間違ってる!」というジョーの台詞は、原作者オルコットの人生観を正確に言い表している。事実彼女は婚姻制度や固定的な性役割に甘んじず、生涯独身を貫いた。

しかしオルコットが、結婚自体を否定しているわけではない。作品内で四姉妹はそれぞれの夢、理想にを追い求め、さまざまな形で自分の人生を輝かせている。


(盧雅鈴 / 外国語学部日本語学科3年)

이로하(いろは)文集-朝鮮大学校外国語学部日本語学科-

「이로하(いろは)文集」は、朝鮮大学校外国語学部日本語学科が主宰する、朝鮮大学生による日本語創作文集です。今学年度よりブログ形式で発表することになりました。コロナ禍に見舞われた2020年度のお題は「かける」。それぞれの、さまざまな「かける」について、思いを綴ってみました。

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