「補う」
「補う」
何かが欠けてしまった。何が欠けたのだろうか。
なぜ欠けたのだろうか。そう考えることに、私は疲れてしまった。考えても答えが出ないのなら、この問いはナンセンスということだろうか。
変わるということ。
ある面で人は、常に変化を求める。例えば私は、旧正月の法事で少し遅れて学校に行くイレギュラーな朝が好きだったし、18歳の春、朝大に行くため大阪を離れる時も、実家の生活に飽き飽きしていたこともあり、寂しさの反面、期待も確かにあったと思うのだ。毎年冬が来て、衣替えをしたり、はじめてストーブをつける瞬間もワクワクする。
一方で、変化とは良いものばかりではない。21歳の今、心底そう感じている。
2020年は、世の中にとっても私にとっても、変化の年だった。数え切れないほど、計り知れないほどの何かが変わってしまった。一瞬のうちに、変わってしまったのだ。
「煩った」年、2020年。こんなにキリの良い数字なのに、この響きを聞くと泣きたくなる。
世の中や自分の人生は、どこかをきっかけとして間違いなく、目に見えて煩ってしまった。
どうして。
嘆くのも無理はなかった。嘆くしか、なかった。
しかし変わってしまったものは、いくら嘆いても「元通り」にはならなかった。
2019年。はたちの私は人生を翔けていた。
世界の主人公は私だ!と言わんばかりに、毎日ひたすらに声を上げて笑った。
気づけばその頃の突風は、静かに消えてしまった。
何かが欠けてしまったのだ。そう思った。
何が欠けたのだろうか。どうして欠けたのだろうか。
私はそうやって、無意味な問いをくり返した。
いや、果たして欠けたのだろうか。
そもそも、欠けてしまった「何か」なるものが本当にあったのだろうか。
確かに、変わった。世の中も、私も。
しかし、その変化はいつ訪れてもおかしくなかったのだと思う。
欠けてしまった「何か」。いや、もしかすると、そんなものははじめからなかったのかもしれない。
なかったのに、ないことに気づいていたのに、あたかもあるように見せていただけだったのかもしれない。ないことが、暴かれただけだったのかもしれない。
しかし、この期に及んでそんなことはもうどうだっていい。
「ない」ものは、補わなければ。
以前のように屈託なく笑えなくてもいい。私は、「ない」ことを知ったのだ。これからはその「ない」を補いたい。そんな平凡な日々を、必死につかみたいと思う。
(崔悠玉 / 外国語学部 日本語学科 4年)
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