「欠音」
「欠音」
あ、まただ。また何かが欠ける音がした。
ここ数日、いやここ数十日、まともな生活を送っていない。ごろごろしながら見たいのか見たくないのかわからないテレビをずっと眺め、せんべいをむさぼっている。意識という意識はそこにはなく、ただ時間がすぎるのを待っている、そんな日々だ。外は嫌気がさすほど気持ちよく晴れていた。憂鬱だなあと思いながらせんべいをひと齧りしたとき、体の力が抜けると同時に、また何かが欠ける音がした。
そういえば数日前から歯が痛い。舌で歯をたどってみると、奥から2番目の歯が本来の形をしていないような気がする。歯磨きはこまめにするほうだし、一回に要する時間も7分程度。人より気を使っているほうだと思う。やっぱりせんべいの食べすぎか?「ただ時間がすぎるのを待っている、そんな日々」を送るのに忙しかったからか、歯医者に行くのは億劫だった。30本ある歯のうちの一個くらい使えなくなったってごはんを美味しく食べる自信は私にはあった。
気づいたら目の前にせんべいの空き袋が大量においてあった。今日も食べすぎたな、と思いつつ、のどが渇いたので何時間ぶりに身体を起こすことにした。冷蔵庫まで10歩のところを大股5歩でたどり着く。今日一の達成感。冷蔵庫を開け牛乳パックを手に取り、今度は食器棚まで何歩で行けるか挑む。冷蔵庫から食器棚まで3歩のところを1歩で行くぞと意気込んで大きく足を踏み出す。と同時にコップを手に取った!と思ったのも束の間、コップは私の手からするりと逃げ、床に落ちた。惜しかったな、と思いながら拾い上げてみると、コップのふちが少し割れていた。その瞬間にのどを潤すのも面倒になった。コップを冷蔵庫に戻し牛乳パックを食器棚に戻すと、何も欲していなかったかのようにまたソファに寝ころんだ。そういえばさっきもあの音が聞こえた。
今みんなは何やってるのかな、とふと思った。テーブルに手を伸ばしスマホを取ろうとする。が届かない。足で一回スマホを床に落とし、手の届く位置まで移動させて、やっとスマホが手元にきた。だれかに連絡でもしてみようかな、と思いつつロック画面を開く。その瞬間、電話音が部屋中に鳴り響いた。鳴り響く音の大きさとそのタイミングに驚きながらも画面をみると、友人からだった。明日の予定を決めるためか、と瞬時に察し、すぐに電話にでる。「あっ久しぶり~元気してる~?会う約束してたのって明日だよね~?本当にごめんなんだけどさ、明日急遽バイトが入っちゃってさ、会えなくなっちゃったんだよね。今度絶対埋め合わせするから!ごめんね~ テロリン…」あ、切れた。明日は友人と会うため数十日ぶりに外に出る予定だった。が、ものの10秒でなくなった。バイト先が時短営業になってシフトを入れてくれなくなった、とつい3日前に嘆いていたはずなのに。何かほかに用事でもできたのだろうか、まあ勘ぐるのも面倒だな、と充分勘ぐった後に思った。考えれば考えるほど友人の礼儀のなさに呆れたが、もうどうでも良くなった。この世で4番目に信じられない言葉は「今度埋め合わせするから」だな、と思いながら、明日からも続くであろう「ただ時間がすぎるのを待っている、そんな日々」を楽しみにすることにした。
なぜか外の空気が急に恋しくなった。窓を開け空を見上げると月が見えた。今日は満月じゃないな、と思ったその時、また何かが欠けた音がした。その音が聞き慣れたものになってしまったら、いよいよ本当に自分がだめになってしまう気がした。
(姜世羅 / 外国語学部 日本語学科 4年)
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