「近況報告」
「近況報告」
2か月ぶりにあった親友から不意打ちの贈り物をもらった。はやくあけてみて、と催促され封筒から取り出してみると、ポストカードだった。クロード・モネの「散歩」だった。淡い色彩で描かれた風景に日傘をさした女性がたたずんでいる。美術館にいったお土産、いちばんあなたっぽいものを選んでみた、と彼女は目を細め言った。
家に帰り、さっそく絵を机の壁に飾った。殺風景だった机が少し華やいだ。どこまでも続いているような奥行きのある絵は、見ていると吸い込まれそうになる。椅子に体育座りしながら、しばらくの間絵をボーッと眺めていた。彼女がわたしに選んでくれたポストカード。眺めているうちに、なんだかお腹の底から幸せな心地が湧いてきた。この幸せの正体はなんだろう。彼女が美術館のお土産コーナーでわたしを思い出してくれたことが嬉しかった。忘れずに鞄の中に入れて持ってきてくれたことも、どうやって渡そうかと話の流れを考えてくれたことも。わたしがいないところでも、わたしのことを思い出してくれる人がいるなんて、なんて幸せなことだろう。贈り物が何歳になっても嬉しいのはきっと、そのせいだ。そばにいることだけがわたしとあなたの繋がりではないことを、小さなポストカードが証明してくれている。
会えない人を近くに感じるのはとても難しい。一緒に過ごす時間が多ければ、おのずと相手について考える時間も増える。だれかの行動や思考に知らずのうちに影響を受けながら、自分もまた影響をあたえる。わたしとだれかの人生が目に見えて交じり合っていく。そしていつの間にか、だれかがわたしの大切な人になっていく。
しかし、遠く離れてしまったら、わたしたちはどうなるのだろう。その間にわたしもあなたも、当然のように変わっていくのなら、わたしたちの関係性はどうなるのだろう。わたしがいま心が通じあっていると思うのは、単に距離的な話ではないのか。だとしたら、卒業後離れ離れになったらわたしたちはどうなるのだろう。長期の休校期間がくる度に、わたしはこのような不安にしばし襲われた。
自粛期間、人と会えない日々が続いた。一人でいるしかない時間は、わたしに色々なことをおしえてくれた。一人の時間は楽しかったが、どこか物足りなかった。自分のなかでのみ行われる思考や理論展開はたかが知れていた。何事も自己完結する日々はスムーズではあったが、あまりにも単調だった。会えない日々が続けば続くほど、人を思う時間が増えた。電話越しの声が、いままでよりずっと近くに感じた。そして、会えなくてもどこかでお互いを考える限り、関係は続くという単純なことに、ようやく気がついた。わたしだけの人生だったのに、生きていく過程でいつの間にか周りの人たちの存在が自分にしみ込んでいた。わたしはすでにわたしだけの人生を歩んではいなかった。わたしは生きると同時に、いろいろな人に生かされていたことを知った。
いまここにいない人のことを、人は考えることができる。たとえ近くにいなくとも近くに感じることができる。わたしがいないところでも、わたしを思い出してくれる人がいることは幸せなことだ。相手がいないところでも、ささいなことでふと思い浮かぶ顔があることは幸せなことだ。それは自分の人生に大切な人が、大切な人の人生に自分がしみ込んだという何よりの証拠だから。あなたを思いながら手紙を書こう。とっておきのペンを取り出して、あなたの好きなあの詩とともに、ポストカードに近況報告を。
今日も一つ悲しいことがあった
今日もまた一つうれしいことがあった
笑ったり泣いたり
望んだりあきらめたり
にくんだり愛したり
………
そしてこれらの一つ一つを
柔らかく包んでくれた
数えきれないほど沢山の
平凡なことがあった
壁に飾られたモネのポストカードからさわやかな風が吹いてきて、わたしを包み込んだ。
(河未来 / 外国語学部日本語学科4年)
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