「呼び―かける」

「呼び―かける」

あなたはこの世で一番「あいまい」なものは何だと思いますか?

過去の記憶?夢の内容?緊急事態宣言の基準?あの世の有無?善意と偽善のちがい?

「ミカンはこのくらい凍らせるのがちょうどいいよね」

と彼女は言った。

私たちはみんなでひとつのミカンを分け合いながら、そうだね、と頷き合った。

彼女の地元である和歌山県からミカンが大量に送られてきたのを機に、私たちはミカンのおいしい食べ方を日々研究していた。その過程で主流となったのが、この、数時間冷凍庫におき「ちょうどよく」凍らせて食べるというものであった。

その後も私たちはミカンを凍らせては食べを繰り返し、「ちょうどいい」を追求した。

この世で一番あいまいなのは言葉じゃないか。

ひとりでミカンを凍らせて食べたとき、そう思った。

あの時みんなで共有した「ちょうどいい」ってどれくらいだったっけ、ひとりでは判断がつかなくなったとき、「ちょうどいい」のあいまいさ、言葉のあいまいさに私は当惑した。

もしかしたら、あの時「ちょうどいい」と思っていなかった人もいたのだろうか?「ちょうどいい」という同じ言葉でつながったあの空間で、私と同じ基準でその言葉を発していた人は果たしていたのだろうか?

思えば言葉なんて全てあいまいだ。言葉を操る人間そのものがあいまいだからかもしれない。

「雨が降りそうだから、傘を持っていこう」

「今日は春みたいで心地いいね」

「あなたが大切だからこそ言っているんだよ」

「雨が降りそう」と言う判断基準はどこにあるのだろう。何を感じて「春みたい」だと言ったのだろう。誰本位での「大切」を語っているのだろう。

言葉では言い表せないものが支配する世の中で、それでもどうにかそれを表現するため、人々は言葉をつかう。しかしそんな言葉すらもあいまいで限界があるならば。

「同じもの」に対して「同じ言葉」を発し、その言葉に「同じ価値」と「同じ熱量」と「同じ意味」を与える。果たして人間はそれをできるのだろうか。

またいつかひとりでミカンを凍らして食べた時、「ちょうどいい」と思う基準は変わっているだろう。「このくらいがちょうどいいね」と、一緒に同じものに同じ価値をつける人がいなくなった時、私は何が「ちょうどよく」て何が「ちょうどよくない」のか分からなくなくなりそうで、その空間自体が嘘になりそうで、それがこわかった。

しかし私には、あの時、みんなでミカンを食べた時の「ちょうどいい」が、しっかりと全員の「共通意識」としてそこにあったことを信じて疑わない。

なぜか。

それは、そんなあいまいな言葉を定義づけるのものとして、言葉があるからだ。

その人の発したいままでの言葉の積み重ねが、その人の言葉を意味づける。

彼女の発した言葉の基準はどこにあるのか。彼女はその言葉の価値をどう定めているのか。

あいまいだが、私にはわかる。

彼女が何を基準に「ちょうどいい」と思ったのか、何を美しいと思うのか、何を楽しいと思うのか、何を正しいと思うのか。

それは、彼女がいままで紡いできた言葉から、彼女の価値基準が垣間見えるから。この人はこの言葉にこのくらいの意味を付与するのだと、発する言葉の端々で感じ取ることができたから。

あいまいな言葉の価値を決めるのは、その人がいままで紡いできた言葉の数々である。

言葉によって人は形成され、言葉によって人とつながり、言葉によって世の中が豊かになる。

言葉とは決してひとりで完結するものではなく、人との対話なかではじめて「言葉」として存在し生きるのである。

私は大切な人たちの言葉に触れ、その人の紡ぐ言葉に感銘を受ける。

その数々の言葉こそが、その人を形づけているものであることに気づいた今、私はひとりの時も強く生きていける気がした。絵を見て「美しい」と感じた時、同じ温度で「美しい」と言ってくれる人がいること、焼肉を食べて「おいしい」と感じた時、同じ熱量で「おいしい」と言ってくれる人がいること、この道が「正しい」と思う時、同じ気持ちで「正しい」と言ってくれる人たちが思い浮かぶから。そう確信できるくらいに、私はまわり人たちの、繊細で力強く揺らがない言葉の数々に触れてきた。

あいまいな言葉たちに同じ価値を見出せること、それ以上に幸せなことはあるのだろうか。

「みんなで一緒にがんばろう」

と彼女は言った。

彼女の言う「みんな」は誰を指し、「一緒」とはどのような形で、どこを目指して「がんば」り、その度合いはどのくらいなのか。そんなあいまいな言葉からは確固たるものを感じられた。私は彼女の発したその言葉、それに付与した意味合いが私と同じであることを確信している。それほど、私たちはたくさんの言葉を交わしてきたのだから。

きっとまたみんなで凍らせたミカンを食べたとき、私たちは「やっぱりこのくらいがちょうどいいよね」とだけ言い、笑い合うのだろう。


(姜世羅 / 外国語学部日本語学科4年)


이로하(いろは)文集-朝鮮大学校外国語学部日本語学科-

「이로하(いろは)文集」は、朝鮮大学校外国語学部日本語学科が主宰する、朝鮮大学生による日本語創作文集です。今学年度よりブログ形式で発表することになりました。コロナ禍に見舞われた2020年度のお題は「かける」。それぞれの、さまざまな「かける」について、思いを綴ってみました。

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