特別寄稿 「音」

「音」

大きなディスクオルゴール。

それを見ても私は特に何も思わなかった。それよりも隣にいたアボジとオモニが興奮気味に語る姿に目がいった。まるで子供のように懐かしむ様子に、自然と笑みがこぼれてきた。

「音楽をかける」その語源は一八〇〇年代末に作られたレコードにあるらしい。それよりももっと古いのがオルゴールで、一七〇〇年代末にまでさかのぼる。今や街ゆく人々はイヤホンをつけている。最近ではコードレスが主流だ。仮に過去からタイムスリップしてきた人がその光景をみると驚きを隠せないだろう。「なぜ耳栓をしているのか」「耳から視神経が飛び出ている」「新しいイヤリングかしら」などなど。

今も昔も人々は音を欲し、それが形となっていった。家でゆったり音を楽しむということが、より身近なものになっているのだろうか。そう思うと音を聴くこと、音楽をかけることは、人間にとって一つの本能ではないかと思う。そして気がつくと、私も「音」の虜になっていた。

私にも印象的な「音」がある。一つは大学時代に出会ったものだ。ひょんなことから演劇に出ることになった。しかも役柄はいわゆる闇落ち。私は右の首筋をいつでも痙攣させることができるようになったぐらい、その役にのめりこんだ。心も体も一番憔悴していた時、その音響が初めて流れた。その音色は体の隅々にまで行き渡る。涙を流す程度ではない。その場から動けぬほどになったのだ。元来そんな性格ではない私にとって、その役に自分が潰されるとも感じていた。そんな私を救ってくれたのが、この「音」だった。今でも胸が熱くなる、最強のBGMだ。

そしてもう一つ。第一〇〇回全国高等学校ラグビー大会に出場する大阪朝高ラグビー部に届いた歌「あの旗をはためかせて」。歌詞はもちろん素晴らしいが、それを表現するソンチヒャントンムの力強い歌声に、何度背中を押されたことか。「進もう、成し遂げよう まだ叶わないぼくらの夢を」その言葉を胸に、命を懸けて闘う姿が、今でも脳裏に焼き付いている。彼らをみると、この「音」がおもむろに響いてくる。

この世界は音で溢れている。いや、溢れすぎている。だから人々は自分が聞きたい音だけを聞くようになった。補聴器のようにすべての音を捉えるのとは違い、人の耳は無意識に聞き分けている。そうして聴くようになった音楽は、楽しむものではなく、いつしか消費されるものとなった。一つのものを聞き続ける、それよりも新しいものをと。新しいものが出れば自己のふるいにかけ、「聞いて聞かぬふり」をする。人々は満足することなく新しい音を聞き続ける。自分にあった音を聞き続ける。残された「音」は、聞かれなかった「音」はなかったことになる。

でも、その「音」はたしかにある。それは、時には「声」となり、時代をこえてその人の胸に届く。心に残る、魂を揺さぶられる、想いが込められた「音」はたしかにあるのだ。受け取った人もまた「音楽」をかけていく。そうして時代は紡がれてきた。

私も誰かの心に、「音楽」をかけるように、私の「声」をかけていきたい。


(李京柱 / 大阪朝鮮中高級学校教員・高級部ラグビー部コーチ 日本語学科卒業生)

이로하(いろは)文集-朝鮮大学校外国語学部日本語学科-

「이로하(いろは)文集」は、朝鮮大学校外国語学部日本語学科が主宰する、朝鮮大学生による日本語創作文集です。今学年度よりブログ形式で発表することになりました。コロナ禍に見舞われた2020年度のお題は「かける」。それぞれの、さまざまな「かける」について、思いを綴ってみました。

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