寄稿「無題」
小5の冬、マラソン大会の前日に愛犬が車に轢かれた。即死だった。
姉たちや母、しつけに一番厳しかった父でさえも、三日間はずっと泣き続けていた記憶がある。
昔から走るのは大嫌いだったけど、その年のマラソン大会はもっと憂鬱だった。本当は前を向いて走る気力もなかった。それでも、ひどく落ち込んでいた私をみて、休んでもいいんだよ、と言ってくれた担任の先生に、私はなぜか少し意地になって、「走ります」と答えていた。愛犬の死を理由にして、苦手なことから逃げるのは愛犬に対して悪い気がしたからだ。
パーン、とスターターピストルの音が鳴り、マラソンが始まった。
一足一足踏み出すたびに、飼い主として愛犬の一生を幸せにできなかった後悔や、自分への怒りが込み上げてきて、息が苦しくなって涙が出てきた。でも、最後まで走れずに立ち止まってしまったり、私がいつまでもめそめそして前に進めなかったら、愛犬はどう思うんだろう。今、自分にできることは何だろう。そう考えて、ある限りの力を振り絞って走った。
結果が何位だったかはもう忘れてしまった。その時の私には、最後まで走り切ったということに意味があったのだと思う。また、現在の私にも、意味があることだと思っている。愛犬は、まだ幼かった私の心に命の重さを教えてくれた。
どんなことが起きようと、世界は動いていく。私が立ち止まっているときでさえも、世界の速度はいつも通常運行なのだ。駆け足じゃなくてもいい、少しずつでも、まっすぐ進むことが大事なんだと、今も私の心に語りかけてくれているような気がする。
(趙希娜 / 外国語学部英語学科4年)
0コメント