寄稿「フィクション」
「フィクション」
…汝には、満たされるということも、飽くということもない、ということを。揺り椅子に腰掛け、窓辺で夢想にふけり、独りで憧れるがいい。揺り椅子に腰掛け、窓辺に寄り添い、けっして味わえそうもない幸福を夢見るがいい。(完)
こうして、この物語は終わる。物語とは何であろうか。戯言の連鎖、よもやま話、口伝え、芸術作品、知識人の叡智の集積…様々な定義が可能であろう。
この物語はフィクションである。フィクションとすれども、物語内の世界に一足踏み入れると、息吹く世界が頭の中に広がる。初めて出会う人物と対面する。そう、20世紀アメリカ、キャリーに出会うように。出会ったことのないその少女は、都会の波に揉まれながらも、極致ともいえる富と名声を手に入れることになるが、依然として心の中に虚無感が漂う。
そんな少女に出会うとき、そんな少女に思いをはせるとき、一瞬にしてこの物語の世界が果たして「フィクション」という枠にとらわれ続けることができるのか、甚だ疑わしい。なぜなら、キャリーが置かれる状況は、天空を超えた物質すら特定できないような異星ではなくて、この地球に存在するアメリカなのだから。フィクションから見えてくるものは、ノンフィクションの世界なのである。読み手はつまりノンフィクションの世界と対話しているのだ。
だとするとフィクションとはいったい何なのであろうか。作り事、虚構…あまりにも恣意的であるように思われる。この世に完全なるフィクションが存在しうるのか。ある人は言うだろう。今も心動かす冒険譚、夢の彼方へといざなう宇宙譚は完全なる現実との乖離によって、人々の心を自由自在に駆り立てると。果たしてそうであろうか。それが一見認められている既存の国や地ではなくとも、現実に立脚していないそれがありえるのであろうか。作者なるものの脳は、現実から情報を得ているのではないか。そうだ。完全なるフィクションなんてあるはずがない。だから、「フィクション」と命名されるものはそこにいないようで、確実に存在するのである。
得体のしれないフィクションは、「単なる」フィクション、「純粋な」フィクションを嗜むことを不可能にする。無数に現実とつながれた線に支えられながら、架空と現実を架け渡っているのである。だが、フィクションが「フィクション」と呼ばれる上において、その幻影は人間を蝕んでいくかのようだ。
「空」に「架ける」…
架空(フィクション)とはつまり「空」なるものにただひたすらに架け、繋ぎ、訴えるものではなかろうか。その「空」なるものの深部には、名の通り「 」何もないのである。だから人間は、そこに思い思いに詰め込んで、文字と文からなる物語をこの世に放ってきたのだ。はて、人間が詰め込んだその物語とやらは、一体どこから来たのであろうか。二言することはあるまい。現実から来たのである。人間の脳細胞という唯物的な器官から、あらゆる実体験から得た情報に対する思考を繰り返し続けるその試みによって、正真正銘現実から生まれてきたのである。現実に生きる限りにおいて、「空」に架け続ける行為は、その発信源である現実におけるあらゆる断片を、「空」として織り交ぜていく行為に他ならない。やはりフィクションは完全なるフィクションではなく、ノンフィクションで現実なのである。
このような思考実験の後、パラパラと今一度物語(フィクション)を読み開くとき、今まで見たことのない「空」に出会うことになる。それは今まで見えなかった「空」である。しかし、その「空」は単なる「空」ではない。むしろ「実」であった。「空」は「実」であったのだ。
そのとき、変わらずとも新たな架空(フィクション)に出会い脱帽し、同時に過去の己に対する絶望を引き起こす。浅薄な探求心がこの世を漂う気に触れ、その脆さからして一瞬にして剥がれ落ちていく。しかしその脱帽と絶望は、決して闇の渦へといざなうものではない。むしろ心地よく、己を包み込むのである。影も奥行きも存在しなかったあの頃の単調で脆弱なそれは、今この時から鋼のように強く燦然と輝きはじめるのだ。そして、それが己を希望へと導き、それ自体が希望であり続けるのだ。
だとするなら、架空(フィクション)というまやかしにすっかり囚われていてはいけない。架けられている「空」の本質なる「実」を、今こそ暴き出すのだ。己の眼を、知を、情を、現実に架けるのだ。ならば、いついかなる形式で物語(フィクション)が始まろうとも、決して動じないであろう。いや、動じないはおろか、自らが物語(フィクション)をこの世に存在させる主体として、物語(フィクション)を真の姿へと形作ることができる。そうだ。それは可能性ではない。権利ではない。義務だ。この世に生まれたものが果たすべき義務なのだ。その義務を果たし続ける過程に、人類が本来享受すべき真と実からなるものが、拠り所を内にして目の前に照らし出されるのだ。その境地に行き着くために、今一度、悠然たる一歩を踏み出そうではないか。
(大学4年間、学びを与えてくれた全ての師・友に対する感謝の意を込めて。)
※引用元:ドライサー著(1997)『シスター・キャリー(下)』(村山敦彦訳)、岩波書店
(白佳奈 / 外国語学部英語学科4年)
0コメント