「留学の思い出」
「留学の思い出」
1
夜、ふとした時に目が醒めると、目の前にともる明かりに気づく。なにしてるの、と聞くと「明日の準備」とだけ返ってくる。
明日の準備、明日の準備・・・・・・、そうしてまた、ベッドに潜り込む。朝、誰かの話し声に起こされる。そうしてまた、明日の準備が始まる。
2
あまりに速く車が通り過ぎるので、いつまで経っても歩道を渡るのが躊躇われる。瞬きのあいだに信号が赤から青に変わり、青から赤に変わる。そうしているうちに白線の上を落ち葉が、落ち葉の上を車の車輪が駆け抜けていく。まいったな、これは。と思っていると頭の中をキンキンと這いずり回る音が聞こえる。音がだんだんと大きくなるにつれ、車の速度も上がっていく。青になったので、ようやく歩き出そうとすると、向こうからパトカーがやってきて、目の前を通り過ぎる。なんだ、パトカーか。ほっとすると、次に救急車が何台も通り過ぎる。今度こそ、と思い足を踏み出した時、巨大なクジラが現れて、尾ひれをバタつかせながら、うなり、ゆっくりと道路を進んでいく。信号が赤に変わり、いつまでも濡れたままの道跡だけがそこに残っている。
3
飛行機が離陸したのは真夜中のことだった。機内には帰る人と行く人がいて、さらにそこから大人と子供というふうに分かれていた。わたしはというと、ぶ厚い窓ガラスにだらしなく顔をこすりつけながら眼下に広がる町の明かりを見ていた。後ろの方でいびきをかく大人たちと、これからますます元気になるはずであろう子供たちの叫び声が耳をつんざいた。中の明かりは少しずつ弱まり、かえって外の世界が輝いているようだった。配られた毛布にくるまって、生ぬるい紅茶をすすると、機長が放送をとおしてなにやら話を始めた。子供たちがあまりにもわめくので良く聞こえなかったが、どうやら予想以上に風が強く、到着は未明になるらしかった。そんなことよりもこのうるさい子供たちをどうにかしてほしかったが、わたしは折角なら一番に太陽を見たいと思い、起き続けることにした。飛行機はどこまでも高く飛んだ。既にさっきまでの景色は跡形もなくなっており、あるのは微かな光が散らばる闇だけだった。それでも私は飽きずに外を眺めていた。賭け事でもしていたのか、後ろで喜びと悔しさに滲んだ叫び声が聞こえた。大人たちは死んだように眠っていて、起きる様子はない。どれぐらい経っただろうか。わたしが意識を取り戻した(目をつむってもつむらなくても、景色は変わらなかった)ときには、さっきまで宇宙の神秘について語り合っていたはずの子供たちも、物音ひとつ立てずに静まり返っていた。そのうちに、どこかで誰かの泣き声が聞こえた気がした。注意深く聞くと、泣き声は方々から聞こえてきた。声は次第に増えていった。泣いているのはすべて大人たちだった。飛行機ががくんと揺れ始めた。窓の外には星が輝き、それらはすべてこちらに近づいてくるように見えた。わたしは二度と戻ることはできないかもしれないと思った。
4
踊っているうちに自分が誰だか分からなくなった。それどころか、今日食べたはずの夕食さえ覚えていないことに驚く。爆音とレーザービームがフロア内を飛散り、ついで誰かとぶつかった拍子にアルコールをぶちまけられた。「最高だね、それ」と、オーレアインの「それ」はこのびしょ濡れになったエスニック衣装を指したのだろう。「ここはもう飽きた。移動しよう、最高にイカした場所があるんだ!」。エディが耳元で叫ぶ。さっきまで飛ばしていたエレクトロニックが、突然ブルースに変わったところで見切り、私たちは店を後にした。「最高にイカした所って、どこだよ?」。オーレアインが不満げに聞く。さっきのクラブが相当気に入っていたらしい。「まぁフランスではお目にかかれないだろうよ」。エディが青い瞳をキラキラ輝かせながら答えた。先日オーレアインが紹介に連れてきたこのドイツ人少年は歳こそ私たちの一コ下だが、私よりも身体が一回りも大きく、ついさっきまで卓抜したダンステクニックをわれわれの前で披露し、フロア内が度肝を抜かれたばかりだ。「日本にもないだろうな。日本はみんなキレイ好きなんだろう?朝鮮は、良く分からないなあ。でもドイツも負けてないぜ」。
十五分ほど歩くと郊外に出た。発展している町はだいたい海沿いにあって、そこから離れればぽつりぽつりと田んぼが見えてくる。さっきまで漂っていた潮の香りも、今はだいぶ落ち着いていた。
スマホで時間を確認するとすでに十時を過ぎていた。私は不安になって聞いてみた。
「この時間に開いてる店ある?」
私の稚拙な英語のためか、笑いながらエディが、
「ここに来たのはいつ?」と返してきた。
「五日前。」
「じゃあまだ知らないわけだ。この島はな、キム。夜が本番なんだ。ここらへんのワーカーたちは夜に働いて朝に寝るのがほとんどだ。それに、君みたいにマジな言葉を習いに来るやつはほとんどがアジア人だろうな。おれたちはここに遊びに来たんだぜ。バケーションだよ、バケーション。これも留学のプログラムさ、すべてが実践なんだよ。授業は二の次、な?」。横でオーレアインが大きくうなずく。
そうこうしているといつの間にか明るい場所に出た。通りには飲食店が密集していて、ずいぶん賑わっていた。エディにつられて歩いているうちに、私は思わず鼻をつまんだ。強烈な臭いがしたからだ。見るとそこら中に吐しゃ物が落ちている。道ばたには多くの影が座り込み、酒瓶を片手に囁き合っていた。私はこれ以上進むのを躊躇ったが、エディとオーレアインは気にも留めないで歩いていくので仕方なくついていくことにした。そして私たちは、T字路の角にある、一番活気づいたバーに入ることをきめた。
ほとんどの客が西洋人だったためか、狭いバーの前にたむろする人混みをかき分けてやっとのこと隅の席にありつくまで、私の顔は好奇の目に晒された。エディがカウンターで注文している間にオーレアインは故郷フランスの画像を見せつけて何か自慢気に喋りはじめたが、早すぎて聞き取れなかった。少ししてエディが三人分の酒瓶と氷を持ってきた。しかし細かいお金がないというので私とオーレアインがエディの分を割り勘した。
「エディ、ビールは飲まないの?」と乾杯をした後に私は聞いてみた。
「嫌いじゃないけど、ビールが好きなのは親までだよ。」
エディはテキーラをグラスに注ぎ、そのままぐいぐいと仰いだ。
「キムは?飲めるの?」。オーレアインが機嫌良くにやけている。
「飲めるけど、あれは嫌だ。」
私は汚物にまみれた路地を、さらにその上から汚して行くいくつもの影を指した。オーレアインがアイアグリー、と小さくうなずいた。エディが瞼を大きく見開いた。それを見て、私は眼玉にも美しさがあるんだなと感心した。
「冗談言うなよ。ここははき溜めなんだぜ。みんな吐くために飲んでるんだ。そしたらまた飲めるからな。誰かが吐いて(throw up)どうせ、誰かが掃くんだ(clean up)。それに……」
興奮しているのか、エディは明らかに英語とは思えない言葉で話し始めた。しかしオーレアインも英語ではない言葉で対応したため、私はぼう然とした。そうなると二人のうち、どちらかはフランス語もドイツ語も話せるのではないかと思われたが、結局私にはどこの言葉かは理解できず、フランス語の授業を選択していなかったことが少しだけ悔まれた。その間にも私たちの酒は着実と減っていった。
トイレから戻るとエディがテーブルの上に氷を滑らせながら遊んでいた。オーレアインの姿は見当たらなかった。「オーレアインどこ?」と聞くとエディが外を指差した。人々の隙間から、手前の信号機の下でうずくまるオーレアインらしき影が見えた。急いで外に出ようとする私を「待て、キム」とエディが呼び止めた。
「オーレアインはおもしろい男だよな。彼と出会ったのはつい二週間前だぞ。」
「何?」
私はエディがなにを話そうとしているのか分からなかった。見た目ではケロリとしているくせに、実は相当酔っているに違いない。
「キム。俺はフランスが好きなんだ。ドイツより、フランスの方がいい。でもフランス人に生まれなくて良かったって思うよ。フランスはドイツに二度も攻め込まれたんだ。二度目の戦争の時、それも二度目に、簡単に、ドイツがフランスに勝ったと知って、みんなどう感じたと思う?『ああ、フランスはなんて弱かったんだ!』。試しに彼に聞いてみるといい。彼らはドイツを怖がってる。いくらからかっても、彼らはニコニコと笑うだけだ。オーレアインもそうだよ。でも一番に恐れてるのは自分たちのことだ。もし三度目があるなら、ドイツはフランスに負けちゃうだろうよ。ドイツも、抵抗なんてしたら終わりだ。でも勝ったんだ。フランスに負けたわけじゃない。」
私はエディの言葉にどう返すべきか迷った。無視するか、なだめるか。しかし私の頭に浮かんだ数少ない英単語では到底答えられるべきことでもなかった。辛うじて、「ここで待って」とばかり伝えると、エディは手を挙げたままテーブルに突っ伏して「乾杯!」と叫んだ。私は店から出て、オーレアインの元へと駆けつけた。オーレアインは向かい側のアイスクリーム店の壁にもたれたまま眠っているようだった。ただ昏々と身じろぎもせずにいる彼は、しかし顔だけが苦しさでゆがんで見えた。私は彼を起こそうと腕を掴んだが、やっぱりやめておくことにした。
湿っぽくはないが、真夏の夜の暑さは相当に堪えた。目の前のアイスクリーム店に入る気力さえ失われていた。オーレアインは当分起きないだろう。エディも店の中で待たせたままだ。しかしなぜエディはオーレアインを貶めるような話を私にしたのだろうか。私はめまいがして、その場に屈みこんだ。同時に、私のうちにある一途の川が屈折したのを自覚した。胸の下を突き上げて来る酸いものが逆巻いた。私はもう一度オーレアインを見た。オーレアインを見て、店のほうを見ると、燃えるような蛍光に当てられた人々の影が大きく波打っているかのようだった。川は私の外にもあふれている。そして私は、その波打ち際にいた。容赦なく打ちつける激しい波にさらされて、おぼれかけた時、私はようやく今日の夕食が五日目のミートパスタだったことを思い出した。
(※この作品は大学二年の頃、マルタ共和国に留学した際つけた日記などを脚色したものです。)
(金裕弘 / 外国語学部日本語学科4年)
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