寄稿(文歴・理工学部から)
「私が『かける』こと」
文学歴史学部歴史地理学科4年 柳福美
文章を書くのが大嫌いだ。なぜなら、想像力も文章力も乏しすぎて恥ずかしい思いをするだけだからだ。しかし、仲のいい日本語学科の友人から「いろは」の誘いをうけ、良心の命ずるがまま頷いてしまった。
Google先生にエッセイの書き方を教えてもらいながら、何とか作品を書き上げた。出来上がった作品はと言うと…それはそれはひどかった。あまりのセンスのなさに笑いが止まらなかった。処女作「夢の中で」は、墓場まで持っていくことにした。
日本語学科でもなく文歴の「文」でもない私に、傑作を求めていないということは百も承知だ。しかし、プライドの塊である私の「センス」が、大学中にばれるのが嫌で棄権しようとも思った。
でも、自分の書いた文章が「いろは」を通じて誰かに読んでもらえるのなら。と、Wordをまっさらにして一から書くことにした。
(せっかくの機会だし、4年間の集大成として「歴史」と「地理」について書こう。)と思ったが、このテーマを扱うにはどうも尺が長くなってしまいそうだ。一般的に「歴史」の重要性については考える人も多いだろう。しかし、「地理」はというとどうだろう。「地理」と聞くだけで思い浮かぶのは、白頭山、金剛山、漢拏山とか環太平洋造山帯、アルプス・ヒマラヤ造山帯といったところだろうか。
「地理」はそんなものではない。地理ゼミ生として(専攻は朝鮮現代史だが)朝大生に何としても「地理」の魅力を伝えたい。これが、背伸びもせず等身大で「かける」ことではないか。その一心で私の思う「地理」を文字に起こしていった。
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あなたにとって「地理」とは? あなたにとって「地理」を学ぶ理由は?
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私にとって「地理」とは何だろう? 私にとって「地理」を学ぶ理由は何だろう?
まず、「地理」の定義をしておこう。地理とは、地球上における山川、海陸、気候、生物、人口、都市、産業、交通、政治などの状態と様子である。また。地理学の略でもある。地理学とは、地球の表面と住民の状態ならびにその相互関係を研究する学問である。ひとことでいえば、空間の科学だ。
ここからは、「何がどこにあるのか」を記憶する暗記科目という固定観念を一度捨て、頭の中でイメージしながら読んでほしい。
私たちが住む地球上には人間が創造した文化や社会、そして元来ある自然で構成されている。これらをよく見てみると、すべてが融合されて成り立っている。(とてつもなく当たり前なことで阿保らしいと思うが。)そのすべての事象を対象にして「そこで他の物事とどう結合され、なぜそこに存在するのか、なぜそこで起きているのか」を明かすことが地理であり、また地理学なのである。
地理は空間を考察する科学でありながら、現在だけでなく時代ごとの変遷を見る場合もある。といったことから、地理が扱う対象は無限大である。対象があまりにも膨大すぎるので、人間や社会が創造した事象を扱う「人文地理学」と自然物や自然現象を扱う「自然地理学」に区分する。人文地理学の中でも現在からもっと遡った時代の事象を扱った研究を「歴史地理学」という。このように、地球を構成する要素に対して対象を狭めて分析的に扱う研究をまとめて「系統地理学」という。便利上このように区分されているものの、とある地域を見たとき、人文地理学で扱う事象も自然地理学で扱う事象も同時に存在する。それがその地域の姿だからだ。なので「地域」について知るためには、人文地理学と自然地理学を同時に把握する必要がある。系統地理学とは違うアプローチの仕方をする研究を「地誌学」という。このように地理学は、系統地理学と地誌学の相互作用で成り立っているのである。
おっと、少し堅苦しい説明なってしまった。例えで説明するのがわかりやすいだろうか。
「移動」というテーマを地理学的に見てみよう。人の移動には、通勤、通学というように毎日繰り返されるものもあれば、旅行のように不定期的に行われるものもある。そして、もともと住んでいる場所に帰ってくることを前提にした移動もあれば、移住や移民のように移動先にとどまる移動もある。移動の理由も、その移動手段も様々だし、多くの人が移動すれば、人口が増える地域もあれば、逆に減る地域もある。人たちが移動してそこで定住するとなれば、その地域固有の言語や文化と移動してきた人たちの言語や文化とが合わさって、変遷されていく。このように、「移動」という一つのテーマで見ても、その理由、手段、人口の増減、文化の伝播…すべてを地理学的に考察することできる。もっと踏み込んで言えば、地理学なしに学門を考えることはできないのだ。
「地理学と哲学は諸科学の母」という言葉を聞いたことがあるだろうか。文字通り、現在の諸科学はこの二つの学門から分科、派生して形成されたという表現だ。政治地理学(※地政学)、経済地理学、防災地理学、言語地理学…。むやみやたらになんでも○○地理学と付ければ、地理学になるわけではないが、地理学は総合科学と言えよう。
ここまで読んだあなたは、もう「地理」を単なる「暗記科目」だとは考えられないだろう。そして、気づいたはずだ。生活の中で「地理」があまりにも身近で、当たり前すぎて、「地理」についての考えが乏しくなるのだと。
いつの時代もそうであるが、21世紀に生きる私たちの回りも常に何らかの問題に取りつかれている。とても生きにくい社会だ。でも嘆いてばかりいられない。現状から目を背けることも、変えることも私たち自身の手にかかっている。その糸口は紛れもなく「地理」ではないだろうか。
環境問題が深刻化していくなか持続可能な社会を作っていくため、目に見えない人類の敵、COVID-19との戦いで勝利するため、グローバル化されていく世界で朝鮮人として堂々と生きていくため「地理」について改めて見つめ直す必要があると思う。地理について考えること自体が、「生きる力」、「勝つ方法」を身に着けるということと直結する。これが、私が地理を学ぶ理由だ。
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さて、地理のレポート課題のようになってしまったが、原稿用紙4枚分で地理の魅力・価値は伝わっただろうか。実際、私も大学で学ぶまでは、地理を暗記科目だとしか思えなかった。しかし、4年間で地理の魅力・価値を感じここまで「かける」ようになった。
「地理」と無縁な人は地球上に誰一人いない。総合学門としての地理という観点から、ぜひ日本語学科の皆さんにも「日本語と地理」について考えてみていただきたい。
「ガーネット」
理工学部4年 金宏潤
みなさんは『時をかける少女』いう作品をご存知だろうか。タイムリープができるようになった主人公を巡る青春劇である。好きな時間軸へと飛べる能力。あればとても便利なものであるが、現実世界で実際にそんな人を見た者はいないだろう。私は映画すら見ていない。しかし、時をかける「もの」は見たことある。
私は日本で生まれ朝鮮人として今日まで育ってきた。日本人になりかけることもなく、在日コリアン4世としてのアイデンティティを確立してこれたのは偏にウリハッキョ(朝鮮学校)と在日同胞社会のおかげといえるだろう。
日本という異国の地で自分たちのコミュニティを築き、自分たちの学校を建て、そして今日まで75年間も守り抜くのは決して簡単なことではない。この歴史の中で数多の先人たちが、これからの世代のために,未来の子供たちのためにという一つの強い意志を胸に、守り闘ってきた。
繋がってきた闘いと自分の生活を天秤にかけることなどできようか。脈々と受け継がれてきた意志も、後に続く人がいなければそこで途切れてしまう。年々縮小の一途をたどる同胞社会の現実を前に闘う者がこれ以上欠けることは許されない。
朝鮮大学校の卒業を目前に控えた私に、先人たちの意志は75年の時をかけてこう問いかける。
「人生を懸けて、何を為す。」
『時をかける少女』の主題歌である『ガーネット』という石は、実りの象徴であり勝利を石言葉に持つそうだ。幾年も時をかけてきた「いし」を実らせることができるのは一体誰であろうか。
私は私を育ててくれたウリハッキョと同胞社会を守るための、先人たちから受け継いできた意志を次の世代へと繋がるための闘いの最前線を駆ける者として生きていきたい。
未来で待っている子供たちのために、すぐ行こう。走っていこう。
「この決意を母に捧げる」
理工学部理学科4年 黄春陽
物心ついた頃から病院が苦手だった。決して診察や注射が怖かったわけではない。私が怖かったもの、それは…
「ファンチュニャンさーん、診察室へお入りくださーい。」
散漫された関心が一気に集まる。馴染みのない名前の持ち主を探る視線の中、異物であることを自ら晒すように私は立ち上がりそそくさと診察室へと入る。私が怖かったもの、それは名前に群がる好奇の目だ。
日本社会では確実に浮く私の名前。聞き返されるたびに小声になっていく私の名前。身近な人からも同じ名前の有名な物語と間違って書かれる私の名前。正直あまり好きではなかった。
追い討ちをかけるように嫌いになった理由がもう一つ、私には通名がない。決して通名を持たない家庭に産まれたわけではない。私の出生時に母が、この子に名前は二つもいらないと申請を拒否したのだ。そのことを恨んだりもした。名前を呼ばれるだけで視線に押しつぶされそうになるのに、そこから逃げる術もない。未就学児ながらに生き辛さを感じていた。低学年になるころには、将来帰化することを望むくらいには感じていた。
それでも時は過ぎ、高級部に上がるころには朝鮮人としての誇りを持ち、ウリハッキョを守りたいと思い、日本社会での不当な扱いが改善されるのを願うようになった。
だけど、それとは裏腹に名前は未だ、私のコンプレックスだった。
高級部二年生の冬、五日間の短期アルバイトをすることになった。アルバイトは初めてではなかったが、五日間だけならと思い、履歴書に初めて「黄春陽(こうはるひ)」と書いた。保護者印を押す母が悲しそうな顔で聞き返してきたような気がしたが、さほど気にはならなかった。
楽しい職場だった。履歴書の学歴で結局朝鮮人ということは隠せないが、そんなこと関係なく優しく接してくれる人たちだった。
しかし三日目を過ぎたころから違和感を覚えるようになった。
「こうさん!」
「はるひちゃん!」
私を指す言葉なのに、私に向けられている気がしなくて気持ち悪かった。
初めての感覚、今までの私が否定されたかのような一抹の不安、本名に群がる恐怖が冷たいものなら、これは温度すら感じない無機質な、まるで私が幽霊にでもなって「こうはるひ」という名前の人を第三者的に眺めているような虚無だった。同時に脳裏を通り過ぎるのは、母の悲しそうな顔ばかり。
名前なんて所詮、ただの記号だと思えるのなら気にならないのかもしれない。だけど私が欠いてしまったものには、どのような願いが掛けられていただろうか。自ら手放した先には、日本に住む朝鮮人としての大切なものが欠けた、もぬけの私しかいなかった。
それから私は、本名を使うことに執着するようになった。ピザの宅配、ファミレスの順番待ち用紙、もちろんアルバイト先でも。私の焦燥感ときたら、これはもう一種の呪いだと思う。
私はここにいます、朝鮮人である私は今ここで生きています、あなたたちのすぐ隣で平凡な生活を送っていますと、叫ぶような気持ちで私の名前を怯えながら使う。
私の名前と接した人達が、一瞬でも私たちの存在を意識しますようにと願いながら、自分でも大袈裟と思うほどに訴えながら。
正直私はまだ、自分の名前を好きになれない。でも、何よりも誇らしい。
名前の呪縛から解かれたころには、心の底から名前が好きになって、名前と共に何のためらいもなく生きていて、きっとそれは私以外にとってもいい方向に向かっているはずだ。
私が将来子供を育てることになったとき、母親と同じ選択ができるだろうか?こんなことで悩まなくてもいい世界に変えるため、私は今日もファンチュニャンとして生きる。これが私の向き合い方であり、私なりの親孝行だ。
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